公設派遣村

今年もできていたのですね。
年末に見てたマスコミ報道では、
「今年は派遣村ができない」と言っていたのですが、
それは、


公設ではできるということだったのですね。


年明け早々、鳩山首相が公設派遣村を訪ねてるのを、これまたマスコミで目にして、
弱者救済の首相という見方を植え付けているな〜と感心しました。


ここでいう弱者とは、失業者だけを指すものではありません。私は失業者=弱者としたくないので。
非自発的な就業のうえの非自発的失業かもしれないけれど。


弱者という言葉は使いたくはないのですが、
見せ方が上手なものを使った方が得だと思うので、
敢えて「弱者」と使います。

「弱者」とつかうことで、
一つの刷り込みを働かせてしまうことを危惧するものです。

弱者=助けなければならない存在というイメージだけが先行することは怖いのです。
本当の弱者とは何かという定義がきちんとなされないまま、弱者という言葉だけが独り歩きしてしまう。

弱者と使うことによって、イメージは簡単になるでしょうが、
イメージつくことが、一つの経験則となって、弱者=助けてやらなければならない存在という奢りになってしまう可能性も否定できない。

さらにいうなれば、「弱者」と使うことによって差別的な取扱いにならないかということも考えねばならない。
でも、差別を埋めるための情報コストが存在する。
この差別を埋めるための情報コストをさらに増やさせるような手法は取りたくない。だから、弱者という言葉は安易に使いたくない。でも、今日はたくさん使ってるな。


無論、救済すべき弱者は存在し、それを助けることは政府の役目だとは考えますが、
でも、こういった弱者を作り出させ、それに手を差し伸べていたら、
いろんな弱者を名乗った者たちが一斉に手を掴みだして、救済するつもりが救済どころじゃなくなる可能性が生じる。

そしたら、
さも逃げ出したくなるものになるのか、
それとも一緒に救済を求めるか(他国にでも?)、

そんな「クレクレ」みたいになりそうで怖いという印象を持つのは誤りでしょうか?
モラルハザードだね。

働かなくても助けてもらえる、養ってもらえる方にしがみ付きたくなるでしょう。

誰かに助けてもらうことが「恥」と感じるのか、
助けてもらって当たり前みたいな考えをするのか、
なんだか世の中の動きが後者になっているような気がするのは気のせいなのか?

助けてもらって当たり前みたいな考え方をしているうちに、
誰かが助けてくれるから「機会主義的な行動」をとってしまっている。
そんな世の中になっていないか?


手を差し伸べることはもちろん必要だけれども、
それを上から引っ張り上げるようではなくて、
下から押し上げるための手法が必要なわけで、それには自助努力も求められる。


自助努力をしていないという見方ではなく、
上から差し伸べる役割ではなく、下から押し上げる手法に重点を置き続けることが必要だということ。


それどころじゃないのかもしれないけれど、
でも上から助けるだけでは、いつまでたっても自立ができなくなる。
上から助けて、徐々に下から押し上げる方式に変更できるものなのか。

その辺はきちんと考えなければならないことでしょう。


もう、そんなことを考えている場合じゃないのかもしれない。
でも、本当にそうなのか?

よくわからないものである。自分の中で整理ができていなことが、よくわかる。